戦争がすべてを狂農業の悲劇わせてしまった。
ヨーロッパが戦乱に荒れ始めてから、アメリカの農産物輸出は飛躍的に増大した。
綿花と食用穀物を主体とするアメリカの農産物輸出は、一九一四年まで年間一○○万ドルの水準でしかなかったものが、一九二○年にはおよそ四○○万ドルにも跳ね上がった。
「偉大な人道主義者」フーヴァーがョ−ロッパを駆け回っている頃、大量の穀物がかの地に送り込まれた。
アメリカが参戦してからは、政府は最も重要な戦略物資として農業生産を鐘と太鼓で奨励した。
農民は「戦えないのなら耕そう。
食糧で戦争は勝てる」とせき立てられリカの農家は空前の戦争景気に湧いたのである。
ブームの中、農家は生産拡大のために耕地面積を広げ、農業機械を買い増した。
そのためには農地を担保にした抵当貸付の増大が必要であり、農家は設備投資資金も借り入れなければならなかった。
しかし、政府の農産物価格支持政策がとられているのである。
農家への貸付は安全性の面からもまったく問題はない。
資金は銀行と生命保険会社からスムーズに流入した。
そうして農家の負債残高は増大していった。
それでも、一九一五年から一九年にかけて一・四倍になった負債残高の上昇は、農家純所得の伸びをはるかに下回っていた。
しかし、戦争の終結とともに事態は一変し、農産物価格は直ちに下落し始めた。
もともと農産物は必需品である。
価格が高くとも消費量を抑えることは難しく、逆に価格が下がってもそれほど大量に消費できるものではない。
これを別の言い方をすれば、農産物は不足時には価格が急騰し、余剰時には価格が暴落するということである。
それが、いまや戦争中の増産努力によって農産物の供給が急増したところへヨーロッパの需要が消滅したのである。
五年かかって実現された価格の上昇分は、三年で完全に打ち消されてしまった。
それとともに、アメリカの農民のうたかたの夢もけしとんだ。
後に残ったものは、いまや不用になった大量の過剰生産能力と借金の山農家の一人当り所得も若干は上昇した。
戦時中の好況の経験と大拡張がなかったなら、この時期アメリカ農業の状態はそれほど悪いヅものではなかったと思われるしかし、一九二○年代の前半、アメリカ農業は不況のまっただ中にあり、後半も若干の回復を見せたとはいえ戦時中の増産のつけが重くのしかかっていた。
当時、人口比において国民全体の三○%、GNP比において一五%を占めていた一大基幹産業たるアメリカの農業は、一足早くブームを経験しただけで、二○年代の都市の繁栄からは完全に取り残されていた。
二○年代の構造不況業種は農業だけではなかった。
石炭、造船、鉄道輸送といった棚識獣住業種も苦境を迎えていた。
造船は大戦中の過剰設備投資の調整がなかなか進まなかったが、二七年五月をピークとして、二九年に入る頃にはその五分の一に生産高は落ち込んでいた。
一九二○年に年間延べ一三億人に達した鉄道旅客数は、コンスタントに減少して二九年には八億人となり、減少のペースはそれ以降さらに激化した。
石炭は、一方で石油、天然ガスなどの新しいエネルギー源との競争に押され、他方で鉄道需要の減少にひきずられる形で値下がりしていき、石炭のトン当り平均価格は二○年の三・七ドルのピークから、三二年の○・七ドルという底値に向けて一本調子で下落していった。
それと並行して炭坑労働者はニ三年から五年かけて四三%も減少した。
しかし、この時代最もドラマチックな変動を経験したのは住宅建設であった。
戦争中抑えられていた住宅建設は、終戦とともに爆発的に拡大した。
二○年から二五年へかけては住宅建築の大ブームが起こり、年間の新規民間住宅建築は五倍以上に膨らんだ。
しかし、二五年以降住宅建設はブームの到来と同じ速さで縮小し、二九年にはピーク時のほぼ半分に落ち込んだ。
株式市場の崩壊の頃、住宅建設ははっきりと不況に陥っていた。
住宅建設はもともと投資的支出として非常に大きな幅で変動する。
そのため、経済学者のサイモン・クズネッヅやパート・ヒックマンは、建設循環をアメリカ経済のほぼ二○年を周期とする中期的循環の主役として重視する。
二○年代に観察された住宅建設の動きも、規則的な循環的変動ではあったが、戦争の影響によってこの時期独特の変動要因と。
パターンをもっていた。
第一次大戦の終わりと共に、ヨーロッパから帰還した兵士を含めて若い世代が世帯を形成し、ベビーブームがもたらされた。
人口の増加率は三年にはおよそ二%にも達した。
とりわけ、五歳以下人口の変動は大きく、一九年にはその増加率はマイナス○・五%程度であったものが、三年には二%を超えるところまで高まった。
二五年までの住宅建設ブームの背後にはこの人口の爆発的増加があったのである。
通常の場合、建設ブームは主としてそれにともなう建設資材の高騰によって終局を迎える。
しかし、二○年代を通じて商務省の建設費指数はほとんど横ばいを続けた。
それにもかかわらずブームが突然消滅したのは、人口の動態が変化したからである。
変化の理由は二つあった。
一つは自然的な人口変化であり、それはベビーブームが突然終わるという形で起こった。
その機に、移民数を三年の割当の半分に削減する第二次移民割当法が制定された。
この二四年法は、一九二九年に始まった国籍別移民割当計画に法的根拠を与え、とくに、それがすべてのアジアからの移民を禁止した点に対しては、日本政府から厳しい抗議の声が上がった。
こうした移民政策によって二五年以降年間移民数は三○万人以下になり、大不況が始まってからは一○万人以下に落ち込んだ。
国内労働者の保護を目的としてとられた移民の制限は、皮肉にも住宅需要の減少に一役買うことになってしまった。
自然的要因による人口減少に、移民の減少が拍車をかけたのである。
そして二のことが、二五年以降の住宅需要の突然の消滅の原因であった。
当時の所得分配の状態のもとで、住宅を購入できる階層には住宅が行き渡り、その時点で住宅ブームは突然死を遂げたのであった。
耐久消費財のブームは住宅よりも長く続いた。
住宅と同様、二五年から二六年自動車の栄光にかけていったんピークに達した耐久消費財支出は、二七年には大きく減少した。
これは二五年までのブームからの反動で、生産が消費を追越し、在庫が増えすぎたことが原因だった。
それに、耐久消費財のうちのおよそ四割を占める自動車の生産に起こった異変も関係していた。
しかし、住宅需要が人口増加のストップを背景に減少していったのに対して、耐久消費財支出は二八年、二九年とさらに力強く上昇していった。
二七年中には株価が下落した月は一月しかなく、二八年は株価は変動を繰り返しながらさらに上昇のスピードを速めていた。
二の株価の上昇によって生まれたキャピタル・ゲインや、その背後にある好調な企業業績とその分配が、旺盛な耐久消費財需要を支えていた。
自動車の生産も、耐久消費財とほぼ並行した動きを示したアメリカの自動車産業はヘンリー・フォードに多くを負いながら発展した。
フォードは機械工として一八九六年にアメリカで六台目の四輪自動車を完成させ、一九○三年に資本金一○万ドルでフォード・モーター・カンパニーを設立した。
横浜 クルージングにエントリーしてみませんか?あらゆる職場の横浜 クルージングを簡単に請求できます。
横浜 クルージングは欠かせません。横浜 クルージングの為になる情報です。
待望の横浜 クルージングです。さまざまなユーザーが楽しめる横浜 クルージングです。